令和5年3月21日開催
令和5年3月21日(火)、立川近郊にて実戦合気道選手権大会が開催された。
大会は代表師範の話から始まった。『実戦的で有効な技とはどういうものか』『そうした技を身につけるためにはどのような稽古をするべきなのか』などの説明を受け、その事を念頭に置いて各選手は試合に臨んだ。
代表師範の話の中にこういう話があり印象に残った。かつて植芝守平先生は、皇族から演武を依頼された際「演武でやるような技は(偽物なので)皇族に見せられるものではない」と言っていたと代表師範は師である塩田剛三先生から聞いたそうだ。
演武でやる技とは、いわゆる相手を倒すまでの動きが何段階にもわかれていて、受けが華麗に宙を舞うような技の事を指している。確かにそういう技は見栄えが良く映るだろう。しかし、宙を舞うような受けが取れるという事は、受けが自分から飛んでいるから成立しているものであり、それは掛けが受けの姿勢をまったく崩せていない事を示唆している。それは技というよりアクション映画などで出てくる殺陣と言った方が妥当なものであり、実戦的な有効性はまったくないと言える。
根井博登選手(左) 東山真教選手(右)
合気道の技とは、掛けた瞬間に相手を倒し、再起不能にまでさせてしまう事が、本来の性質である。代表師範自身も塩田剛三先生の受けを取った際、一気に潰されるように倒された経験をされたそうだ。
しかし、昨今よく見かける合気道技と称するものは、倒すまでにいくつもの動作手順を踏んでからようやく相手を倒しているものばかりだ。それは型を覚えるためのプロセスだから…という言い分もあるだろうが、それにしても先述の本質からかけ離れた稽古を、わざわざ主体的に毎回やる必要があるだろうか?今まで自分が見た限りでは、初心者へ技のいろはを指導する時以外、役に立った試しはない。
これは型稽古のみに偏った稽古を続けているが故に、身体各部の動きや形など、小手先ばかりを気にして稽古を続けた結果、技が形骸化してしまったからと言わざるを得ない。そもそも受けが毎回自分から飛んでくれるのだから、どうやって技を掛けても相手を倒せてしまうのだ。それではいつまで経ってもその技の本質など見えてこない。要するに表面的な形ばかりで中身がないのである。中身を知ってはじめて、「型」は「技」となるのである。
平畠幹彦選手(左) 斉藤康博選手(右)
では何が加われば技が形骸化せずに済むのか?それが試合だ。実際に抵抗する相手との自由攻防の中で自己の技が掛かるか否かを試す機会は不可欠なのである。そしてそこで得たものを型稽古へフィードバックし、研究してまた試合で試す。試合も稽古の一つなのである。そして型稽古と試合は一体であり、双方の相乗効果があってこそ、実戦的で有効な技へ辿り着けるのだ。
世の中には数々の武道があり、それぞれ日々試し合う場を設けながら研鑽を深めている。そして合気道も数ある武道のうちの一つである。合気道だけが特別という事など決して無い。それなのに、やりもしないうちから「試合などナンセンス」の一言で終わらせてしまう根拠の無い自信が何処から来るのか理解できない。試合が無い方が正しいと言うのなら、それを理論武装ではなく実際の技として証明しに来てほしいものである。その技が本当に有効な物であれば信じる事も出来るというものだ。
実際に試合をやってみればわかるが、相手と戦う中で合気道技を掛けていくのは、かなり難しく、繰り返し試合という形の稽古が必要となってくる。
保坂正彦選手(左) 平畠幹彦選手(右)
今回の試合の全体を通して見ると、相手の下半身を崩す事無く、相手の腕や上体をどうにかしようとする小手先の攻防が目立っていた。こういう状況は、抵抗する相手を前にするとなってしまいやすい。しかし、相手の下半身がしっかりしているままでは当然姿勢を崩す事は出来ないので、タイミングが合った場合に相手が偶発的に倒れる感じになる。試合が始まる前に代表師範が仰っていた「相手の全体を崩していく力の通し方」について、もっと研究と理解が必要だと思った。
また、相手を前に出したい気持ちと相手の技に掛からないようにしたい気持ちからだと思うが、お互いの腰が後方へ引かれるような姿勢になり、結果的にお互いを外側へ引っ張り合うような状況が目立った。これだと、そのつもりが無くても、結果的に相手から遠ざかるように逃げる動きとなるので、自己の技が掛かりにくくなる。相手から攻められた時、相手の動きを防ぐのではなく、技に技で応戦する習慣づけが出来るような稽古展開が必要なのではないかと思った。
今回の試合結果を各自が型稽古へとフィードバックし、今後の技の発展に繋がっていく事を願う。
また、他流派の方々も遠慮せず積極的に参加して頂ければ、お互いに得るものはきっと大きいだろう。届かない所で意見ばかりを発していても意味がないので是非とも参加をお待ちしている。